2015年7月17日
凄く悔しかった。悲しかった。
つい先日、凄く悔しくて、悲しくて
この憤りを
書かずにはいられないことがありました。
我が家の前にある大きな桑の木。
毎年梅雨になると
黒々とした甘くて美味しい桑の実をつけ、
鳥や我が家のラッキーのおやつになり、
<月のもり>の季節のジャムになっていました。
滞在されているお客様も
ご自分の手で摘み取られ、
「懐かしい味」「初めて食べた」
と、喜んで下さっていました。
この木の持ち主は
何人もいる私の<お父さん>の一人。
ここには土地だけがいくつもあって、ご高齢なこともあり、
私が草刈り等の管理をしています。
つい先日も、今年も美味しい桑の実のジャムが作れたと、
報告したばかりでした。
どこにでも、自己主張の強い方がいらっしゃいますが、
私の住む集落にも、皆を振り回すおばあさんがいます。
今年はこの桑の実を食べに、猿が来るようになったこともあり、
<お父さん>に木を切るように言ったのです。
猿が来る → 嫌だ → 切れ
という単純な図式しか頭に浮かばないようだけど、
桑の木があるから、畑が荒らされずにいる、
という反面があることに、なぜ気がつかないのだろう。
もともと山にいた動物達が、
実る木を切りすぎたから、餌がなくて
里に降りて来て、畑が荒らされるようになった、
という話は、散々聞いているであろうに、
まだわからないのだろうか。
私はこの話を持ち出して、切る、という選択をしないよう、
抗議した。
昔、養蚕が盛んだったから、
村の至所に桑の木はありますが、
実をつける木は他にありません。
たわわに実る木がある、
これだけで財産になっている、という思いは
年寄り達には持ち合わせていない価値観なのです。
持ち主の<お父さん>は、ご自分の手には負えないので、
親戚の方にお願いして、木を切りました。
慌てる私に
「ここに住んでいないから、従わない訳にはいかないんだよ。
そりゃ〜、住んでりゃ〜、言い返して文句も言うけどな。
あんね(私のこと)の言う事に一理あるけど、
こういう村では長老に従わないとならないんだよ。」
と、なだめられてしまいました。
わかっているよ、お父さん、
良い悪いじゃなく、村社会は上の者に黙って従え、ってことぐらい。
でも、まだ若い私は、
この土地の魅力、かけがえの無いここの恵みが
誰よりも好きな私は
時に耐えられないこともあるんだよ。
もうじき、自分の人生が終る、と
日々過ごしている村の年寄り達と
あと最低でも20年はここで農業を営んで生きて行きたい、
と願っている私の間には
意識の大きなギャップがあります。
自分がこの村を守って来た、という
強い意識を持っている長老達と
都会からやって来た
こんな魅力溢れる土地は無いと思っている私。
もっと考えて、年寄り達が納得出来る説得の仕方は無かったのだろうか。
目の前にあった木が無くなった今、
自問自答の日々。
薪にするよう、切ってくれた桑の幹。
心が痛くて、当分、運べない。