2017年8月30日
Kakek
私の人生で、本当に大切な、大切な方が今朝
旅立たれてしまった。
Kakek(インドネシア語でおじいちゃんの意味)の本名を
私は知らない。
でも、私の息子を「私の孫」と呼び、
私達親子のことを、20年以上も
ご家族と語り続けてくれた人。
今から20年以上前の話ですが、
息子は毎日、何にアレルギー反応を起こすかわからないし、
東京の空気も水も、食べ物も、
どれもこれも彼には
苦痛を与えるものでしかありませんでした。
入退院を繰り返し、
救急で点滴をしてもらい、
帰宅してしばらくすると
また病院へ走る日々。
私は毎日、くたくたでした。
当時息子は1歳6ヶ月。
そんな非日常な日々なのに、
家族でバリ島へ行く計画を立てました。
勿論、滞在中の食事は全て自炊するつもりで、
お米から調味料、野菜に至るまで、
大きなリュックに詰め込んでの出国でした。
バリに到着してから、びっくりすることばかりでした。
当時の現地は野菜などの農産品に農薬も化学肥料もまだまだ縁遠く、
鶏肉も庭を走り回っている子を捕まえて潰して食べるし、
水もいわゆる生水で、消毒も何もされていなかったのです。
日本での生活は家中の蛇口に浄水器を取り付け、
その水で手を洗ったり、お風呂に入っても、
息子のアトピーは悪化し、痒がり続けたのに、
気持ち良さそうにシャワーを浴びている!
びっくりの連続でした。
バリでの常宿に Kakek(カケ)がいました。
Kakekはくわえタバコで毎日ヒンドゥーの神様へのお供えを作り、
リューマチで少し不自由な足を引きずりながら、
畑を耕していました。
Kakekはお供えに添えるバナナを息子に下さいます。
重症のアトピーがあった息子は、当時食事指導で
甘いものは、果物を含め一切禁止でしたが、
バリで採れたものは果物を含め、滞在中は食べていい
とお許しをいただいていたものですから、
息子はバナナの虜に。
バナナを意味するpisang(ピサン)と
ピサンをくれる kakek(おじいちゃん)
を一瞬で覚えた1歳6ヶ月。
生きて行く力は十分あるな〜、と感心したものです(笑)。
この後、息子が3歳になるまで、
何度か日本とバリを行き来しましたが
息子の転地療養という名目では
インドネシアに滞在するビザが下りないので
行き来するのはやめ、
国内でウブドでの生活を再現できる環境を探すことにし、
今の<月のもり>に至るのです。
私の農業の原点は
Kakekの農業といっても過言ではありません。
あの当時、Kakekは豚と鶏の世話をしながら畑を耕していました。
18年前、川島での生活が始まった時も
真っ先に飼い始めたのは鶏でした。
去年、息子がバリの大学を卒業するので、
卒業式に出席するために、
親族一同、総勢8名で飛行機のチケットを抑えました。
が、しかし。
国立大学なのに、卒業式の日程が変更になり、
私達は、単なる観光ツアーになってしまいました(笑)。
でも、それで良かったんです。
一日予定が無くなったおかげで、
私は息子が運転するバイクに乗って、
在学中にお世話になった方々にお礼を言うことができたのです。
一番最後にお伺いしたのが、
Kakekのお家でした。
申し訳ないことに、日本から持参したお土産はすでに無く、
手ぶらでお伺いすることになってしまいました。
20年ぶりの再会!
Kakekは大喜びで迎えて下さいました。
そして、息子のおかげで、
初めてKakekの言っていることが全て分かったのです。
Kakekは20年以上前のことを、
まるで昨日の出来事のように覚えていて、
嬉しそうに話し続けてくれました。
もう、私は涙が止まらなくて。
そして、急いで戻らなければならないことを伝えると、
「お土産はいらない。お金もいらない。
今度ここにちゃんと泊まりに来なさい。」
って言ってくれたので
私は約束したんです。
「なるべく早く、2〜3年のうちに必ず来ますから、
元気でいて下さい。」
って。
そう、あの時のKakekはまだまだ元気に見えたんです。
なのに、逝っちゃったんですね。
しかも
あの涙の再会からちょうど1年経った今朝だなんて。
去年、お会いすることができて、本当に良かった。
でも、もう一度、Kakekeと二人で
お供物を作りたかった。
今改めて、国境を越えて、
こんなに長い間、お互いのことを思える人と出会えたことに
心から感謝しています。
どうか安らかにお眠り下さい。ありがとうございました。